会社の日々①|日本リーグへの第一歩
- leepingpang1965
- 4月16日
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1994年3月18日、私は中国ナショナルチームのメンバーとして、日本リーグに参戦するため来日しました。
空港を出たその瞬間、私を迎えてくださったのは、かつて世界選手権男子シングルス優勝を果たした小野誠治監督でした。1988年に日本を訪れた際、試合を通じて知り合っていたため、再会できたことをとても嬉しく感じました。小野監督は1979年、郭躍華選手を破り、日本に最後の世界チャンピオンをもたらした名選手です。
移動中、日本語の先生からチームの状況を聞きました。チームは設立されたばかりでしたが、小野誠治監督、松下浩二選手(当時日本唯一のプロ選手)など、実力ある選手が揃い、目標はただ一つ、日本リーグ優勝でした。
会社は新大阪、練習場は西中島南方。私は駅から徒歩2分、練習場から徒歩1分ほどの会社寮に住むことになり、日常生活は西村さんがサポートしてくれました。彼はとてもユーモアがあり、いたずら好きな人物でした。
翌日、社長との初対面を前に、西村さんから「はじめまして、よろしくお願いします」と教わりました。しかし、その時の彼の表情にはどこか意味ありげな笑みが浮かんでおり、少し気になっていました。そして次の日、会社の秘書室へ。そこには20代前半の女性が多く働いていました。西村さんが「昨日教えた日本語を言ってみて」と言うので、私は真面目に、一人ひとりに向かってこう言いました。「愛してる!」一瞬の沈黙の後、彼女たちは思わず笑い出しました。何が起きたのか分からず、日本語の先生に中国語で尋ねたところ、その意味を知り、顔から火が出るほど恥ずかしくなりました。その後、日本語の先生の助けを借りて、社長や部長にきちんとした挨拶をすることができました。
中国ナショナルチームでの厳しいトレーニングを経て、当時最先端の総合技術を身につけ、日本リーグに挑みました。当時の日本卓球は、直板やカットマンといったスタイルが主流で、中国と比べると技術面で差がある時代でした。そのため、中国選手に対抗するのは容易ではなく、実際の大会では中国人同士の対戦が多く、まるで中国国内の試合のような状況でした。
ある全日本社会人大会では、ベスト16のうち15人が中国人で、日本人は渋谷浩一選手ただ一人。ベスト8に進むと全員が中国人という結果となり、日本の観客の間で大きな反響を呼びました。
私が日本で最初に出場した大会は「大阪オープン」でした。ベスト8以降はすべて中国人同士の対戦となり、準決勝で王永剛選手、決勝で王振義選手と対戦しました。この大会には社長や部長も駆けつけており、会社にとっても卓球部設立後、初めての大きな大会でした。スタンドから社長が大きな声で「李、頑張れ!」と叫ぶ声が響き、その声に背中を押され、私は大きな力をもらいました。
さらに、サービスに対して相手がうまく対応できなかったこともあり、見事優勝を果たしました。これは私にとって日本での初優勝であり、同時に会社にとっても記念すべき初タイトルとなりました。
次回の記載は近日中公開予定、お楽しみください。
画像1(大阪オープン優勝(1994年)翌年、大会プログラムの表紙に掲載の写真)

画像2(来日当時、世界選手権シングルス優勝者であり恩師でもある小野誠治監督との一枚)

画像3(来日当時、日本卓球協会会長・野平孝雄氏との一枚)





